坂出の風土記

5~3万年前

サヌカイトを使った旧石器文化が、当時原野だった瀬戸内圏にあり、与島西方遺跡や羽佐島遺跡などで多数の石器が発見されました。ナウマン象等の巨大獣狩猟にも使われたようです。

1万数千年前

瀬戸内に海水が浸入しはじめ、人々は周辺山麓、島嶼部に移動し、中石器文化がはじまりました。やがて縄文時代となり、海や山での狩猟生活を行いました。代表的な遺跡として、沙弥ナカンダ浜遺跡や府中ポンプ場遺跡などがあります。

弥生・古墳時代

大陸からの稲作文化の導入に伴い、青銅、鉄の精製が伝わり弥生時代へと移行していきました。瀬戸内海という地形的特徴からか、海や平野を見下ろす城山山頂に祭祀を司った勢力が形成されたようです。

弥生・古墳時代の遺跡からは製塩土器が出土するなど塩づくりの跡をたくさん見ることができます。古代国家が形成された頃、坂出でも、積石塚、茶臼山、新宮古墳、綾織塚等、古墳前、中、後期の様々な古墳が造られました。

飛鳥時代

讃岐国府が現在の府中町に置かれ、条里制が敷かれました。条里制は現在でも林田町周辺で見ることが出来ます。

柿本人麻呂が沙弥島に立ち寄り、浜辺の骸をみて「玉藻よし讃岐の国は 国柄か」という万葉集の句を詠んだといわれています。

平安時代

国司として紀夏井や菅原道真が赴任しました。夏井の20余年後に讃岐に来た道真は夏井と何かと比較され国政運営で難渋したという逸話があるそうです。また、道真は城山の明神原で雨乞いの祈念をし干ばつから人々を救ったと伝えられています。讃岐国庁は、940年藤原純友によって焼かれてしまいます。

1123年即位した崇徳天皇は、1156年保元の乱にやぶれ、讃岐松山(現在の坂出市青海町)へ配流されました。失意の裡に亡くなった崇徳上皇は白峯山頂で荼毘に付され、陵が造られました。崇徳院亡き後、西行法師が白峯を訪れた様子は、保元物語、謡曲松山天狗、上田秋成の雨月物語、二日物語などの文学の題材となっています。

鎌倉時代~

南北朝の細川頼之、細川清氏の、後に太平記に書かれた壮絶な白峰合戦が林田町付近でありました。古戦場は,史跡三十六として残っています。

江戸時代

播州(現在の赤穂市)の人が坂出に移住し、海中の寄洲を堤防として塩田を開いたことで,洲加,内浜に集落ができ坂出村が生まれました。

享保年間には,坂出の古浜が完成しますが後の大洪水によって塩浜は壊滅、田畑に開墾されなおしたりしました。

1824年高松藩の測量方だった久米栄左衛門(通賢)が塩田と田畑の開墾を計画し,3年半の歳月と多くの人手によって「入り浜式塩田」を完成させました。

明治時代

明治維新を経て坂出にも文明開化の波が訪れました。

鍋島に灯台が建造、鉄道が開通、明治末には坂出・宇多津に電灯が点灯されました。

この頃、ドイツのワインセンク氏により讃岐独自の岩石として「サヌカイト」が世界に発表されました。

昭和時代

1934年に瀬戸内海が国立公園に指定されました。

坂出上水道が給水され、「坂出まつり」がはじめて開催されるなど豊かな時代から戦禍の中、1942年坂出市市制がはじまりました。塩業は入り浜式塩田から流下式(枝条架)塩田にかわり、イオン交換膜製塩法によって塩田は終焉をむかえました。

 

1988年瀬戸大橋開通、1992年四国横断自動車道開通などによって坂出は大規模経済流通の時代にはいっていきました。