坂出にまつわる6人の偉人

 崇徳上皇(すとくじょうこう)

元永2年(1119)〜長寛2年(1164)

皇朝時代の幕を閉じ、武家政権の幕開けを導いた悲運の帝。

小倉百人一首の中でも代表的な恋の歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」を詠んだ崇徳上皇。ロマンチックな歌とは裏腹に、崇徳上皇は天皇への謀反の罪で香川・坂出に流された悲運の人でもある。崇徳上皇は5歳で第75代天皇に即位しながら、22歳でその地位を降ろされた。院政の当時は退位した天皇=上皇(院)に実権があり、上皇の権力に取り入ろうとする貴族や武士の争いが、鳥羽法皇の死後ににわかに表面化。戦乱の世の始まりである。


西行法師(さいぎょうほうし)

元永元年(1118)〜文治6年(1190)

自然を愛し後世に大きな影響を与えた、気品高きさすらいの歌人。

崇徳上皇(すとくじょうこう)が讃岐(さぬき)で没して3年後の仁安2年(1167)、御陵の墓前に詣でたことから西行法師と坂出の深い関わりが生まれる。「生涯を旅に暮らした平安の歌人」のイメージが強い西行であるが、その本名を佐藤義清(のりきよ)といい、藤原氏の流れを汲む名門の出である。若くして皇室直属の警備を担う「北面の武士」に選ばれるほどのエリートであった。同僚には同い年の平清盛(たいらのきよもり)もいた。武士としての西行は、疾駆する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)の名手であり、蹴鞠の技も優れていたという。そうした恵まれた環境にありながら、突然23歳で出家する。それから没するまでの50年間に、平安京近郊、高野山、伊勢、吉野、善通寺などの山里に庵を結び、和歌に精通した。


 久米通賢(くめつうけん)

安永9年(1780)〜天保12年(1841)

再評価の機運が高まるマルチ科学者、郷土坂出が誇る「塩田の父」。

現在の東かがわ市引田の馬宿という小さな村で誕生した久米通賢は、始め幼名栄左衛門といった。ここ坂出の塩田開発や測量技術で郷土の発展に尽くしたことはよく知られるが、分野を問わない発明は当時のヨーロッパの技術を凌ぐものがあった。子供の頃から天文、地理に興味を持っていた通賢は19歳で大阪の暦学者間重富(はざましげとみ)の門下に入り、暦学、数学を学ぶ。23歳で帰郷するや、オランダ砲術学を顕すなど多才ぶりを発揮する。領地の測量と地図作成、土木事業、塩田開発と通賢がなした偉業は人々の心の奥深く刻み込まれ、今も「つうけんさん」と親しく呼ばれている。


菅原道真(すがわらのみちざね)

承和12年(845)〜延喜3年(903)

「学問の神様」として、今日も厚い信仰を集める不世出の学者。

天神様と呼ばれ、学問の神様としても慕われる菅原道真は、仁和2年(886)、讃岐国に国司として派遣される。讃岐の国府は坂出市府中町にあった可能性が高く、坂出の歴史に欠かせない人物といえます。祖父、父と文章博士を勤めた学者の家系に生まれた道真は、漢詩の才に秀で、当時中国の北東にあった、渤海(ぼっかい)という国の使節とも漢詩のやりとりを行っており、また、書でも空海、小野道風と並ぶ三聖と称えられている。当時藤原氏の勢力が強かった宇多天皇の治世、天皇が菅原道真を重用したことから反発を買い、藤原氏によって官職を奪われ、九州の太宰府へと左遷された。延喜3年(903)、58歳で悲運の最期を遂げた。


  柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)

生没年未詳

時代を超えて人々の心を打つ、万葉の叙情歌人。

万葉の歌人柿本人麻呂が讃岐を訪れたのは持統天皇時代の690年頃とされる。西国に朝廷の使者として赴き、讃岐国の中の水門(現丸亀金倉川河口付近)から船出して都へ向かう途中、風波を除けるために狭岑島(さみねのしま)ー沙弥島ーに立ち寄った。ここで、たまたま海岸の岩の間に死者を見つける。その時詠んだ歌が地元で親しまれる「玉藻よし…」で始まる長歌である。人麻呂と坂出の縁がここに生まれ、沙弥島が「万葉の島」とも呼ばれる由縁である。


 理源大師(りげんたいし)

天長9年(832)〜延喜9年(909)

民衆救済に生涯を捧げた、「讃岐五大師」のひとり。

理源大師の幼名は恒蔭王(つねかげおう)。大師の誕生については、父葛声王(くずなおう)が塩飽諸島に流された際、母綾子姫は身重であり、沙弥島に着船し、本島で出産したといわれる。また、沙弥島の竜の口(天狗岩)で出産したという説もあるが、いずれも坂出との深い縁で結ばれている。